伝統こけし紹介 佐藤誠古型黄胴・折木時代

伝統こけしはなんで「伝統」ってつくのか。
理由は単純ですが、僕の判断では「歴史と根拠」があるかどうかだとおもいます。

歴史と根拠って??とおもわれる方も多いとおもうので、今日は一つ例を挙げてお話します。

この写真のこけしは、「佐藤誠古型黄胴・折木時代」という名前がついています。
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私たちの初代、佐藤誠が大正の終わりから昭和の始め頃に製作したと伝えられています。
佐藤誠は明治34年に福島県伊達郡に、佐藤金七の次男として生まれました。
当時長男以外は、奉公に出される風習から、9歳の頃に山一つ越えた弥治郎集落の小倉嘉三郎さんのお宅にお世話になることになりました。

誰も身内がいない場所で、数年は農業・家事・子守の手伝いの日々。自分が9歳の子供の頃にそんな境遇にあったらとおもうとゾッとしませんか?
小倉嘉三郎さんは、農業と兼業で、代々こけしを作る家業としていました。それも手伝いから入ったに違いないのですが、次第にこけしを作れるようになり(12歳頃)、成人する頃には弥治郎集落でも指折りの腕利き工人になっていたそうです。

兵役を終えた大正13年、24歳からは、奉公も終わり仙台へ出て食器などの木地を挽く職人として働き、大正15年には独立開業するために、炭鉱景気に沸いていた福島県浜通り地域へやってきました。

最初に開業したのが、福島県双葉郡にある「折木鉱泉」。今では栄えていませんが鉱泉はあり、旅館もいくつかあります。そこで新山左内さん(現在その息子さんの新山左京さんが弥治郎こけし工人会長として活躍中)を職人としてこけし・菓子入れ・木地玩具などを作っていたそうです。

その頃、佐藤誠は結婚・初めての子供を授かった頃。この頃に考案したこけしが、この「誠古型黄胴・折木時代」なのです☆

弥治郎ではロクロ線が中心のこけしだったのですが、このこけしは旭菊を配したり、頭にも模様がたくさんあったりと明らかに華やかに仕上がっていますよね。僕が思うに、このこけしは佐藤誠の第2の人生の幕開けの記念モデルだったのではないかと想像しています。このこけしだけは髪飾りに銀色を使っているんです。その当時銀なんて色が簡単に手に入るはずはないのですが、やはりお祝いのこけしとして祖父が考えたのではないかとおもうんです。

そんなことを考えると壮大なロマンがあるとおもいませんか?こういうところにも伝統こけしならではの楽しみ方があると思います(^ω^)

そんな記念モデルを作り続けて伝えることも大切な仕事。
ここからは僕が復元したものをご紹介します。
この誠古型黄胴・折木時代は僕にとっても思い出深い作品なんです。
思えば6年前、こけしコンクールで初めての入賞をしたのはこの誠古型黄胴・折木時代でした!
(全国こけし祭りコンクール・読売新聞社賞と審査員奨励賞の2つをいただいた)

その頃は父のアレンジで髪飾りを緑にしていたんです。
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そして今年はついに銀が復活!
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誠古型黄胴・折木時代の最近作はこちらからご覧ください。


という風に、伝統こけしは歴史と根拠、つまり物語りがあるんです。
ここ数年はそんなことをあんまりお話してきませんでしたが、これからはブログでも紹介していきたいと思います☆



 

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